2017/07/30

Are you fine, men?

百間川の土手を通った。 

中年・・・と言うか初老と言った方がいいような男たちが集まっている。 
何をしてるんだろうと車を止めて見てみると、何とラジコンの飛行機やらヘリやらを飛ばしていた。 

定年後の趣味なのだろうか。 
数年前まではいっぱしの部長や課長だったような方たちが、子供のような屈託のない笑顔と、そしてそれに相反するような真剣さで操縦器を握っている。 

酷い暑さの予感を漂わせながらも、気持ちのいい朝の風が吹き抜ける夏の川原で、彼らは本当に楽しそうに時を過していた。 

こういう人生もいいものなのかなぁ、としみじみ考える。 


古い話で恐縮だが、ずいぶん若い頃に印刷屋でアルバイトをした事がある。 
写植などがまだ普及しきっていない時代、所謂活版印刷が主流という時代のお話だ。 

僕は渡された原稿を元に、鉛で出来た活字を一文字づつ棚から拾っていく仕事をしていたのだが、その拾い上げた活字を活版に組む職人さんがいた。 
年の頃なら40過ぎだったろうか。 
彼は8時半に出勤してきて、5時半に作業が終わるまで毎日黙々と活版を組んでいた。 
聞くとそれを20年以上続けていると言う。 

趣味は何ですか?と聞くと、毎日一本のビールとテレビでの巨人戦なんだそうである。 
それだけが唯一の楽しみなんだと。 

これには唖然とした。 
ようやく10代も後半に差し掛かろうかという僕には、到底理解出来ない彼の人生だったのだ。 


また、高校生の頃に喫茶店でバイトをしていた。 
その店に毎週日曜日の朝、決まった時間に必ず現れる3人のおとなしそうな中年の男たちがいたのだが、彼らはいつも同じモーニングサービスを頼み、何を話すでもなく、美味そうにコーヒーをすするだけの時間をきっかり30分過ごして帰っていった。 
まるでその席だけが、流れる時間に置いてきぼりを食ってるような感覚さえ覚えたものだ。 

当然のように、この男たちの人生も当時の僕には全くと言っていいほど理解が出来なかった。 

何といっても、僕らの見るもの触れるもの全てが輝いていた時代なのだ。そんな貧乏臭い人生は真っ平ゴメンだと思っても仕方がないではないか。 


けれど、今なら彼らを充分に理解出来るような気がする。 

どんな人にも、それぞれのドラマがあり、そしてそれぞれの人生がある。 
毎日の一本のビールも巨人戦のテレビも、そして毎日曜日のモーニングサービスも、彼らにとっては何物にも変えがたい「聖なる領域」だったのだと今の僕は知っている。 

そして誤解を恐れずに言えば、これはひょっとして女性には理解して貰えない事ではないのかなとも思っている。 
ステテコを穿いてビール片手にテレビの野球を見ている毎日の姿は、女性にとってあまり魅力的には映らないのだろう。 


僕は運良く音楽と出会った。 
そしていつも音楽がそこにあった。 

でも、もし僕が音楽と出会っていなかったら? 

印刷屋のその彼と同じように一本のビールとテレビの巨人戦だけが楽しみな人生を送っているかも知れないではないか。 

いや、それはそれで案外悪くないような気もするんだけどね(笑)

2017/07/23

yumeji



僕は夢二が好きだ。 
おそらく日本初であろうイラストレーターというポジションを選んだところも 
現在だったら、さしずめポップアートと呼ばれていたいたであろうと思われる作風も好きだ。 

当時の所謂「画壇」という世界とは一線を画し、ただひたすらに己の画風も求めて旅をしていた、その制作姿勢に憧れる。 

けれども、彼の一番好きなところは、彼の実際の生き様。 
女を愛し、そして裏切り裏切られ、また女にのめり込む。 
破滅をこよなく愛するような、あの生き方は素敵だ。 

中原中也にしてもそうだが、破滅願望を押さえきれず、女性にのめり込み、世間の常識から程遠いところで人生を終える。 
良く世間一般では「自由奔放」という図式で書かれるけれど、実際はそんな単純なことではないと思う。 

おそらく、魂と肉体と感性の戦いを常時経験してる人種なのだ。 


須く、アーティストは、自分の身を切り刻んで売っている。 
そして、書けなくなったとき、演れなくなった時、創れなくなった時 
必然的に、彼らは自らの生涯を閉じる。 

それだけ、自分の命を削ってでも創り出したそれぞれの作品だから 
彼らは今でも僕らに感動を与える。 

「感動」 

それは、現在のシステムにおいては、もっとも邪魔になるものだ。 
なぜなら、人は「感動」してしまう事で、容易に道を踏み外すから。 

「アリとキリギリス」の話を思い出してみるがいい。 
あのお話は「感動」をことごとく排除している。 
あのお話こそが、体制が僕らに求めている姿勢なのだ。 


話が逸れてしまったが 
僕は、人生に行き詰った時 
必ずといって良いほど夢二の生家を訪れてしまう。 

旧く、薄暗く、そして少しだけカビ臭い空間に身を置いていると 
あの偉大なるアーティストの息吹を 
ほんの少しだけ感じることが出来るのだ。 

2017/07/02

Screen Music

映画音楽(えいがおんがく)は、映画の中で使用される音楽。映画作品を通して貫かれている主題、登場人物の感情や性格、場面の状況などを、音楽という抽象的な表現形式によって視聴者に伝達する、重要な役割をもつ。
とWikiにはある。


実はこの手の「映画音楽大全集」みたいな企画物が大好きである。
別にオリジナルサントラである必要はない。昔の各レコード会社が持っていたオーケストラの演奏のヤツで全然構わない。

どんな映画音楽でも、聴くとやはりその場面を思い出してしまう。
それほど映画と音楽の関係は密接なのだ。
印象的なのは「太陽がいっぱい(1970年)」「ロミオとジュリエット(1968年)」「ゴッド・ファーザー(1972年)」のニーノ・ロータ。
そして「80日間世界一周(1956年)」「誰がために鐘は鳴る(1943年)」「シェーン(1953年)」等のヴィクター・ヤング。
最近では一連のスピルバーグ作品やジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」シリーズのジョン・ウィリアムズか。
ちなみにこのジョン・ウィリアムズ、古くは「宇宙家族ロビンソン」や「タイムトンネル」などのテレビ作品も手がけているんだねぇ。

さて、僕が最高の映画音楽と映像のマッチングと個人的に思っているのは、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演した「ひまわり(1970年)」なのだ。
あのラストシーンに流れるヘンリー・マンシーニのテーマ曲、これほど素晴らしく、そして哀しいラストシーンを僕は知らない。
今でもこの曲を聴くと、あのラストシーン、そして当時の2番館のすえたような館内の匂いを思い出す。
惜しむらくは、この映画は中学生の頃にひとりで観に行ったので、仄かな恋心の思い出がない事か。
あの時、気になる女の子が隣に座っていてくれれば完璧な思い出だったと思うのだが。