2017/07/23
yumeji
僕は夢二が好きだ。
おそらく日本初であろうイラストレーターというポジションを選んだところも
現在だったら、さしずめポップアートと呼ばれていたいたであろうと思われる作風も好きだ。
当時の所謂「画壇」という世界とは一線を画し、ただひたすらに己の画風も求めて旅をしていた、その制作姿勢に憧れる。
けれども、彼の一番好きなところは、彼の実際の生き様。
女を愛し、そして裏切り裏切られ、また女にのめり込む。
破滅をこよなく愛するような、あの生き方は素敵だ。
中原中也にしてもそうだが、破滅願望を押さえきれず、女性にのめり込み、世間の常識から程遠いところで人生を終える。
良く世間一般では「自由奔放」という図式で書かれるけれど、実際はそんな単純なことではないと思う。
おそらく、魂と肉体と感性の戦いを常時経験してる人種なのだ。
須く、アーティストは、自分の身を切り刻んで売っている。
そして、書けなくなったとき、演れなくなった時、創れなくなった時
必然的に、彼らは自らの生涯を閉じる。
それだけ、自分の命を削ってでも創り出したそれぞれの作品だから
彼らは今でも僕らに感動を与える。
「感動」
それは、現在のシステムにおいては、もっとも邪魔になるものだ。
なぜなら、人は「感動」してしまう事で、容易に道を踏み外すから。
「アリとキリギリス」の話を思い出してみるがいい。
あのお話は「感動」をことごとく排除している。
あのお話こそが、体制が僕らに求めている姿勢なのだ。
話が逸れてしまったが
僕は、人生に行き詰った時
必ずといって良いほど夢二の生家を訪れてしまう。
旧く、薄暗く、そして少しだけカビ臭い空間に身を置いていると
あの偉大なるアーティストの息吹を
ほんの少しだけ感じることが出来るのだ。
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