僕が村上春樹を読んだのは「ノルウェーの森」まで。
いや、「ダンス・ダンス・ダンス」までは読んだか。
それ以降の氏の作品は何ひとつ読んでいない。
「騎士団長殺し」はもちろん「IQ84」もご多分に漏れずだ。
正直言えば、初期の彼の作品、特に「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の群像3部作は今でも好きだ。
あの生活感の無さ、そしてライフスタイルは当時の世相と相まって、僕の心にピタリとはまった。
MJQを聴きながらパスタを茹でる、あるいはレーナード・バーンスタインを聴きながら時間をかけて髭を剃る、なんて事は当時の僕にも今すぐに出来そうな事だったのだ。
今では笑い話だが、物語の中の主人公の真似をして、とあるバーで落花生の皮を床にまき散らしてマスターに叱られた事もある(笑)
そんな僕も、いつしか氏の作品を読まなくなった。
なぜか急速に興味を無くしていったのだ。
それは氏の作品の中の「僕」と、実際の僕自身が乖離を始めたの結果なのだろう。
現実世界には「鼠」も「羊」も登場しない。
それが誰かへの比喩や投影であったとしても、少なくとも僕の前には存在しない。
それを知った僕は、1973年のピンボールをもはや弾かなくなっていたのだ。
が、今でも思うのは
氏の作品は、文字の後ろにいつも音楽が鳴っていた。
それも片岡義男のような押し付けの音楽ではなく、極々薄く・・・それはあたかも最初からそこにあるように当たり前に流れていた。
果たして騎士団長殺し」や「IQ84」もそういう世界観なのか。
暇ができたら一度読んでみたいとは一応思っている。
まったくやれやれである。
2017/03/17
2017/02/20
Ryu murakami "69 sixty nine"
このBlogを立ち上げるにあたり、"Favorite Books"というカテゴリーを作ったのだが、この本をそこにいれていいものか、少々悩むところだ。
だが記憶に残っている小説であるのは確かだ。
『69 Sixty-nine (シクスティナイン)』
村上龍著 1987年
1969年といえば、色々な面でエポックメイキングな年であった。
本来、サブカルチャーであるべきものがメインストリームに登場したかと思えば、荒れ狂っていた政治の季節は、まもなくその終焉を迎えようとしていた。
が、その年の僕はまだ小学5年生である。
時代の空気を敏感に感じ取ってはいても、その意味などは全くもって理解できていなかった。
だから、1969年当時の高校生を描いたこの小説は、僕にとっては追体験なのである。
ベトナム戦争と学生運動に揺れた1969年、基地の町・佐世保の高校に通う、高校三年生の矢崎剣介<あだ名はケン>(妻夫木聡)がいた。彼は退屈とレールに敷かれた人生を何よりも嫌う自分を含めた生徒達を管理の檻に押し込めようとする教師達に反抗するため(本当は同級生のマドンナ、「レディ・ジェーン」こと松井和子(太田莉菜)の気を惹くため)に、親友の「アダマ」こと山田正(安藤政信)らと共に映画・演劇・ロックがごちゃ混ぜになった一大フェスティバルの開催を企画する。人生は楽しんだ者勝ちというモットーの具体的意義もあったが、“レディ・ジェーン”松井和子を主演女優に据えれば自分は主演俳優兼監督として堂々と彼女とイチャつけるという煩悩に塗れた野望もあった。更には彼女の発した「デモやらバリケードやらする人の気持ち、分かるような気がする」という言葉を勝手に脳内妄想で肥大化させ、「デモやらバリケードやらする人大好き」という彼女の理想(本当は違う)を叶えるために、校内の全共闘を言いくるめて学校をバリケード封鎖する事に決めたのだが、話はどんどん膨れ上がり、テレビ局や報道陣まで出動する騒ぎになる。(Wikipedia)
69年当時の高校生が、みんなこんなだったのかは僕は知らない。
しかし記録を見る限り、政治活動を行った高校も少なからずあったようだ。
だが、この小説の主人公は、当時の言葉を借りればあくまでノンポリである。
そこに政治的な背景はなく、あくまで当時流行っていたビッグフェスティバルに影響された事と、彼女にモテたいという不純な動機からの事なのだ。
だからこそ、僕はこの主人公にシンパシーを感じる。
高校生が夢中になる事なんてものは、大抵そんな動機から生まれていると僕は思うのだ。
逆に言うと、それであるが故に面白いもの生まれてくるのではないのだろうか。
対して、全く対照的な若者を描いた、芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』
こちらも同じ1960年代の高校生を描いているのだが、その姿勢は全くと言っていいほど違っている。
ベンチャーズに憧れバンドを組んだ高校生たちが主人公だが、その高校生活はどこまでもほろ苦い。
こちらはこちらで、これまた僕は親しみを覚えてしまうのだ。
同じ60年代の高校生を描いたこの2冊。
読み比べてみるのも、これまた一興なのである。
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だが記憶に残っている小説であるのは確かだ。
『69 Sixty-nine (シクスティナイン)』
村上龍著 1987年
1969年といえば、色々な面でエポックメイキングな年であった。
本来、サブカルチャーであるべきものがメインストリームに登場したかと思えば、荒れ狂っていた政治の季節は、まもなくその終焉を迎えようとしていた。
が、その年の僕はまだ小学5年生である。
時代の空気を敏感に感じ取ってはいても、その意味などは全くもって理解できていなかった。
だから、1969年当時の高校生を描いたこの小説は、僕にとっては追体験なのである。
ベトナム戦争と学生運動に揺れた1969年、基地の町・佐世保の高校に通う、高校三年生の矢崎剣介<あだ名はケン>(妻夫木聡)がいた。彼は退屈とレールに敷かれた人生を何よりも嫌う自分を含めた生徒達を管理の檻に押し込めようとする教師達に反抗するため(本当は同級生のマドンナ、「レディ・ジェーン」こと松井和子(太田莉菜)の気を惹くため)に、親友の「アダマ」こと山田正(安藤政信)らと共に映画・演劇・ロックがごちゃ混ぜになった一大フェスティバルの開催を企画する。人生は楽しんだ者勝ちというモットーの具体的意義もあったが、“レディ・ジェーン”松井和子を主演女優に据えれば自分は主演俳優兼監督として堂々と彼女とイチャつけるという煩悩に塗れた野望もあった。更には彼女の発した「デモやらバリケードやらする人の気持ち、分かるような気がする」という言葉を勝手に脳内妄想で肥大化させ、「デモやらバリケードやらする人大好き」という彼女の理想(本当は違う)を叶えるために、校内の全共闘を言いくるめて学校をバリケード封鎖する事に決めたのだが、話はどんどん膨れ上がり、テレビ局や報道陣まで出動する騒ぎになる。(Wikipedia)
69年当時の高校生が、みんなこんなだったのかは僕は知らない。
しかし記録を見る限り、政治活動を行った高校も少なからずあったようだ。
だが、この小説の主人公は、当時の言葉を借りればあくまでノンポリである。
そこに政治的な背景はなく、あくまで当時流行っていたビッグフェスティバルに影響された事と、彼女にモテたいという不純な動機からの事なのだ。
だからこそ、僕はこの主人公にシンパシーを感じる。
高校生が夢中になる事なんてものは、大抵そんな動機から生まれていると僕は思うのだ。
逆に言うと、それであるが故に面白いもの生まれてくるのではないのだろうか。
対して、全く対照的な若者を描いた、芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』
こちらも同じ1960年代の高校生を描いているのだが、その姿勢は全くと言っていいほど違っている。
ベンチャーズに憧れバンドを組んだ高校生たちが主人公だが、その高校生活はどこまでもほろ苦い。
こちらはこちらで、これまた僕は親しみを覚えてしまうのだ。
同じ60年代の高校生を描いたこの2冊。
読み比べてみるのも、これまた一興なのである。
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2017/02/19
Favorite Books Vol.1
『宣告』 加賀乙彦著 新潮社 1979年
「あす、きみとお別れしなければならなくなりました」死刑囚楠本他家雄は、四十歳の誕生日を目前にしたある朝、所長から刑の執行宣告を受ける。最後の夜、彼は祈り、母と恋人へ手紙を書く。死を受容する平安を得て、彼は翌朝、刑場に立つ…。想像を絶する死刑囚の心理と生活を描き、死に直面した人間はいかに生きるか、人間は結局何によって生きるのかを問いかける。
1953年にあった事件「バー・メッカ殺人事件」の主犯正田昭を題材に、精神科医であり獄中医でもあった著者が書き上げた長編。
東京拘置所(当時は小菅拘置所)で実際に正田に接触していた著者ならではのリアリティさは息を飲むほど。
また、同じ拘置所に拘置されている有名な戦後の殺人者が多く登場する。
そのどれもが人間臭く、事件を報じた新聞記事から憶測される人間性とは乖離していて、非常に興味深い。
著者の加賀乙彦氏は熱心な死刑廃止論者であるが、この著書においてはさほどその姿勢を全面に出していない。
あくまで「死」と「人間」の関係を描いているが、それでも「国家による死の不条理さ」に対する疑問と問いかけはその端々に見て取れる。
物語の後半、明朝の死刑執行を宣告されてからの展開は、思わず読む者の姿勢を正してしまう程だ。
母との別れ、最後の晩餐、16年間過ごしてきた独房と遺品の整理、お別れの手紙を認めまんじりともぜず夜を過ごすのだが、明け方ふと眠ってしまう。その時に見た夢は・・・・・
今まで数多くの文学作品を読んできたが、その中でも文句なくフェイバリットな作品。
また1980年に発刊された同じ著者の「死刑囚の記録」も興味深い一冊だ。
「あす、きみとお別れしなければならなくなりました」死刑囚楠本他家雄は、四十歳の誕生日を目前にしたある朝、所長から刑の執行宣告を受ける。最後の夜、彼は祈り、母と恋人へ手紙を書く。死を受容する平安を得て、彼は翌朝、刑場に立つ…。想像を絶する死刑囚の心理と生活を描き、死に直面した人間はいかに生きるか、人間は結局何によって生きるのかを問いかける。
1953年にあった事件「バー・メッカ殺人事件」の主犯正田昭を題材に、精神科医であり獄中医でもあった著者が書き上げた長編。
東京拘置所(当時は小菅拘置所)で実際に正田に接触していた著者ならではのリアリティさは息を飲むほど。
また、同じ拘置所に拘置されている有名な戦後の殺人者が多く登場する。
そのどれもが人間臭く、事件を報じた新聞記事から憶測される人間性とは乖離していて、非常に興味深い。
著者の加賀乙彦氏は熱心な死刑廃止論者であるが、この著書においてはさほどその姿勢を全面に出していない。
あくまで「死」と「人間」の関係を描いているが、それでも「国家による死の不条理さ」に対する疑問と問いかけはその端々に見て取れる。
物語の後半、明朝の死刑執行を宣告されてからの展開は、思わず読む者の姿勢を正してしまう程だ。
母との別れ、最後の晩餐、16年間過ごしてきた独房と遺品の整理、お別れの手紙を認めまんじりともぜず夜を過ごすのだが、明け方ふと眠ってしまう。その時に見た夢は・・・・・
今まで数多くの文学作品を読んできたが、その中でも文句なくフェイバリットな作品。
また1980年に発刊された同じ著者の「死刑囚の記録」も興味深い一冊だ。
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