2017/02/26

Closs Load

ロバート・ジョンソンはミシシッピー州デルタ地帯のどこかのCloss Loadに立っていた。
信号も何も無い、田舎の四ツ辻だ。
戻るか、右に行くか左に行くか。
或いは真っ直ぐ進むのか。
そう、その道を真っ直ぐ行けば、それはシカゴへ、ニューヨークへと続いている。

結果的に彼はそのCloss Loadを真っ直ぐに歩いた。
そして、南部デルタの一地方の音楽であったブルースを都会へ運んだのだ。
ジューク・ジョイントと呼ばれる安酒場で毎晩歌い、街一番のブスを選んでは彼女の家へ転がり込む日々。
出産時の事故で妻と子を亡くし、母親の不倫の末に生まれた彼に失う物は何もなかった。
毎晩のように酒と女に爛れた日々を過ごし、そしてギターを弾き歌うことだけが彼の生きるすべだったのだ。

しかし彼はそれだけでは終わらない。
酒と女に溺れながらも、その合間に他のミュージシャンのプレイを聴くことを忘れていなかった。
そして一度聴いたプレイを、彼はその場で弾くことが出来たと言われている。
そんなロバート・ジョンソンを、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ウィリー・ブラウンら先輩ブルースマンは驚きの思いで故郷へ迎えた。
ミシシッピーを出発だった時よりも、明らかに数ランク上に上手くなっていたのである。
そのせいで彼は悪魔と契約した、とまことしなやかに囁かれるようになる。
テクニックや感性と引換に、魂を悪魔に売ったとされたのだ。

そしてその契約場所もCloss Loadだったと言われている。

彼はその悪魔との契約どおりに27歳の若さで生涯を閉じた。
いつものように酒場の女を口説いたのだが、運悪くその女はそこの酒場の主人の妻だった。
彼は怒ったその主人に毒を盛られたのだ。
恙無く契約は実行されたのである。
その契約の中には「ブルースを世界に拡める」という項目もきっと入っていたのだろう。
結果、彼がミシシッピーから持ち出したブルースは世界を圧巻する事となるのだ。



さて、人は一生の間に何度かCross roadに立つ。
四ツ辻の真ん中に立ち、暫し進む先を考える事もあるし、通りすぎてしまってから気づく事もある。
戻るか行くか、或いは道を逸れるか。
その先にあるものは誰にも分からないのだ。

写真は我が家から南へ5分ほど歩いた所にあるCloseLoad。
僕は時々ここに立ち、往きし日々に思いを馳せる。





2017/02/24

Everyday and Festivals

民俗学では、日常の事を「ケ」と呼ぶ。
仕事や家事を毎日こなして行くこと。
対して日常ではない、例えば祭りや季節の行事、そのような日の事を「ハレ」と呼ぶ。
今でも良く使う言葉に「ハレの日」と言うのがあるが、それはここから来ている言葉だ。

地方の農村部などでは、この「ハレ」と「ケ」がきちんと区別されている。
毎日、日の出と共に起床し、日中は畑仕事に汗を流す。日が暮れればそれは一日の終わりに他ならない。
そして「ハレの日」
この日は仕事はもちろん家事さえも放棄し、一日中飲んで歌い騒ぐ。
それは、毎日の過酷な労働からの開放の日でもあった訳だ。

他方、街ではその「ハレ」と「ケ」の区別が曖昧だ。
仕事中にパチンコをしたり酒を飲んだりする人も多いだろう。
デートしてる不届き者も多いかも知れない。
だから、街の中はいつも混沌としている。
一律の時間の流れの中で同じように暮らして行く農村部の人たちと違い、街の住民の生活観は様々だ。

例えば朝早くコンビニ行くと、ビールや日本酒を買っている人に出会うことがある。
あれは恐らく夜勤明けの人たちなのだ。
僕らが仕事場に向かうその空気の中で、彼らは明らかに休息に向かう顔つきをしている。
そのように街はありとあらゆる生活観を内包しているのだ。

さて、その街でも農村部でも「ハレ」にも「ケ」にも属さない層がいる。
それは「ケガレ」と言う異端者。
日常にも非日常にも属さない人たちだ。

誤解されないように言えば、昨今の近代史的な差別問題で引き合いに出される「ケガレ」とは意味合いが違う。
民俗学で言う「ケガレ」は「穢れ」=「畏れ」でもあるのだ。
それは霊能者であったり、祭事を司る人たちであったり、あるいは芸能者であったりする。

そう、彼らは「ハレ」と「ケ」をきちんと使い分けている人たちにとって純然たる影響力を持つ人達なのだ。
そしてそれが「畏れ」に繋がっていったと考えられている。

さて。
ステージに立つ僕は「ハレ」なのか「ケ」なのか、はたまた「ケガレ」だったのか。

正直僕にも良く分かっていいない。
日常の様でもあるし、非日常の様な気もする。いや、そのどちらにも属さない様な気がしないでもない。

いずれにしても、ステージの上と言うのは特殊な世界だ。
そこにしか存在し得ない何かがある。
やはり、それは僕が「ケガレ」になる一瞬の場なのかも知れない。

2017/02/23

"Spaces"

“フュージョンのゴッドファーザー”と呼ばれたギタリスト、ラリー・コリエルが日曜日(219日)、滞在先のNYのホテルで亡くなった。
代理人によると、彼は睡眠中に息を引き取ったという。自然死だったと伝えられている。73歳だった。(MME Japan)


なぜか日本ではさほど人気がなかった。
同じ70年代に活躍したラリー・カールトンやリー・リトナー、ジョージ・ベンソンなどとは対照的だ。

そのギターに甘さはない。
豪快で攻撃的、なのにどこか繊細なフレーズも織り交ぜる

日本で人気が出なかったのは、ロック的なアプローチが受け入れられなかったのだろうと思う。
後期のマイルス・デイヴィスバンドが日本ではあまり人気がなかったのと同じだ。


僕の好きなアルバムは、1970年にリリースされた「Spaces」。
ジョン・マクラフリン、チック・コリア、ビリー・コブハムが参加したスリリングなアルバム。
その緊張感は半端ない。
中でも、マクラフリンとの行き詰まるギターバトルは圧巻だ。


そう言えば、同時期に活躍したアル・ジャロウも先日亡くなった。
去年はピアニストのジョー・サンプルも亡くなった。

僕の好きだったミュージシャンが、櫛の歯が抜け落ちるように亡くなっていく。



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2017/02/21

'97-'82 Play boy & Heibon punch

押入れの奥から発掘された大量の週刊プレイボーイと週刊平凡パンチ。
どれも1979年から82年にかけてのモノだ。
プレイボーイの表紙は河合奈保子、平凡パンチは大場久美子か。
この時代、発行部数で言えば圧倒的にプレイボーイが上だった。だからだろうか、グラビアも漫画もインタビュー記事もプレイボーイの方がメジャーな人が多い。
しかし、この手の雑誌では、平凡パンチの方が先輩だ。創刊は1964年。対してプレイボーイの創刊は2年遅れの1966年となっている。

プレイボーイのグラビアは風吹ジュン。当時一世を風靡したデヴィット・ハミルトンの撮影。


これは1982年。
2年前の79年に角川映画の「蘇る金狼」で見せた絡みシーンが強烈な印象が褪せないうちのヌードグラビアだった。


次のグラビアは森下愛子。
982年の撮影。彼女が20歳の時だ。
当時、小悪魔的な演技が印象的であった。
現在は吉田拓郎婦人。

そして最後に登場は故坂口良子。

お気づきの方もいらっしゃるだろうが、この3人は僕の好きだった女優だ。
俗に言うアイドルには全く興味がなく、どこか影のある女優が好きだった。
その趣味は今もあまり変わっていない。

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2017/02/20

Ryu murakami "69 sixty nine"

このBlogを立ち上げるにあたり、"Favorite Books"というカテゴリーを作ったのだが、この本をそこにいれていいものか、少々悩むところだ。
だが記憶に残っている小説であるのは確かだ。

『69 Sixty-nine (シクスティナイン)』
村上龍著 1987年

1969年といえば、色々な面でエポックメイキングな年であった。
本来、サブカルチャーであるべきものがメインストリームに登場したかと思えば、荒れ狂っていた政治の季節は、まもなくその終焉を迎えようとしていた。

が、その年の僕はまだ小学5年生である。
時代の空気を敏感に感じ取ってはいても、その意味などは全くもって理解できていなかった。
だから、1969年当時の高校生を描いたこの小説は、僕にとっては追体験なのである。

ベトナム戦争と学生運動に揺れた1969年、基地の町・佐世保の高校に通う、高校三年生の矢崎剣介<あだ名はケン>(妻夫木聡)がいた。彼は退屈とレールに敷かれた人生を何よりも嫌う自分を含めた生徒達を管理の檻に押し込めようとする教師達に反抗するため(本当は同級生のマドンナ、「レディ・ジェーン」こと松井和子(太田莉菜)の気を惹くため)に、親友の「アダマ」こと山田正(安藤政信)らと共に映画・演劇・ロックがごちゃ混ぜになった一大フェスティバルの開催を企画する。人生は楽しんだ者勝ちというモットーの具体的意義もあったが、“レディ・ジェーン”松井和子を主演女優に据えれば自分は主演俳優兼監督として堂々と彼女とイチャつけるという煩悩に塗れた野望もあった。更には彼女の発した「デモやらバリケードやらする人の気持ち、分かるような気がする」という言葉を勝手に脳内妄想で肥大化させ、「デモやらバリケードやらする人大好き」という彼女の理想(本当は違う)を叶えるために、校内の全共闘を言いくるめて学校をバリケード封鎖する事に決めたのだが、話はどんどん膨れ上がり、テレビ局や報道陣まで出動する騒ぎになる。(Wikipedia)

69年当時の高校生が、みんなこんなだったのかは僕は知らない。
しかし記録を見る限り、政治活動を行った高校も少なからずあったようだ。
だが、この小説の主人公は、当時の言葉を借りればあくまでノンポリである。
そこに政治的な背景はなく、あくまで当時流行っていたビッグフェスティバルに影響された事と、彼女にモテたいという不純な動機からの事なのだ。

だからこそ、僕はこの主人公にシンパシーを感じる。
高校生が夢中になる事なんてものは、大抵そんな動機から生まれていると僕は思うのだ。
逆に言うと、それであるが故に面白いもの生まれてくるのではないのだろうか。

対して、全く対照的な若者を描いた、芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』
こちらも同じ1960年代の高校生を描いているのだが、その姿勢は全くと言っていいほど違っている。
ベンチャーズに憧れバンドを組んだ高校生たちが主人公だが、その高校生活はどこまでもほろ苦い。
こちらはこちらで、これまた僕は親しみを覚えてしまうのだ。

同じ60年代の高校生を描いたこの2冊。
読み比べてみるのも、これまた一興なのである。

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Crossing does not open

都市には、必ずと言っていいほど「開かずの踏切」がある。
線路の高架化が進み、以前ほどではないにしろ、それでもまだ多く存在しているはずだ。
カンカンカンと警報機が鳴り、遮断機が降り始める。
その頃合いを見極めて渡るのが、その界隈に住む者のある種の習わいとなっている。

子供の頃、僕の住む街にもその手の踏切があった。
朝や夕方の通勤時には今も遮断機が降りたままの時間が多い。
警報機が鳴り、遮断機が降り始めてから渡る人は、なぜか買い物の行き帰りのおばさんが多かった。
強い日差しが残る夏の夕方のイメージが鮮明だ。
彼女たちは誰もが買い物かごを腕に下げ、ワンピースにエプロン、そして素足にサンダルを履いている。
そんな彼女たちが、電車が来る直前の踏切を風のようにすり抜けるタイミングと判断力と脚力は、到底男たちには真似の出来ない事であった。
そんな時、踏切番のおじさんがピーっと笛を吹き、赤旗を振って警告する。
そう、僕が子供の頃の大きい踏切には必ず踏み切り番がいたのである。遮断機はまだ自動ではなく、踏み切り番のおじさんが手動で降ろしていたのだ。

そう言えば大きな交差点で、交通整理をしているお巡りさんを見かける事もあった。
笛を咥え、身体の向きを東西に変えながら、それは見事に四方から来る自動車を捌いていた。

やがて、踏切も交差点も自動化され、踏切番のおじさんも交通整理のお巡りさんも見かける事はなくなっていく。
高度成長化に伴い、何もかもが自動化され始めていたのだ。
そして生活は効率化され、便利になっていく。

が、そこには人と人の触れ合いが自ずと減っていき、情の交換はなくなっていった。



うちの近所のその踏切の番所に、「可愛い子猫もらってください。くわしくはこの踏切のおじさんに聞いてね。」という張り紙が、幼い女の娘の文字で書かれていたのを今でも思い出す。



2017/02/19

Miffy

ウサギのキャラクター「ミッフィー」の生みの親の絵本作家・グラフィックデザイナーのディック・ブルーナ氏が2017年2月16日(現地時間)、故郷であるオランダのユトレヒトで亡くなった。ミッフィーのオフィシャルサイトが17日、発表した。89歳だった。
http://www.j-cast.com/2017/02/18290968.html
今は二児の母である娘。
そしてティーンエージャーになりつつある孫。

彼女らの傍らにはいつもミッフィーの絵本があった。

なかなか寝付かない夜に、読み聞かせた「ちいさなうさこちゃん」の絵本。

こんな東洋の端っこの島国で、眠れぬ子達のお友達だったミッフィー。


自分の息子のために描いたキャラクターが、世界中で愛されるってすごいな。









I think her

レンガ製のベンチに座り

ぼんやり海を眺めてみた

朝まで降り続いていた大雨が

嘘のように晴れ渡った昼下がり

木漏れ日が僕の身体に優しく触れ

少し潮を含んだ風が頬に気持ちいい



人生は

それほど悪いものじゃない


Favorite Books Vol.1

『宣告』 加賀乙彦著 新潮社 1979年

「あす、きみとお別れしなければならなくなりました」死刑囚楠本他家雄は、四十歳の誕生日を目前にしたある朝、所長から刑の執行宣告を受ける。最後の夜、彼は祈り、母と恋人へ手紙を書く。死を受容する平安を得て、彼は翌朝、刑場に立つ…。想像を絶する死刑囚の心理と生活を描き、死に直面した人間はいかに生きるか、人間は結局何によって生きるのかを問いかける。

1953年にあった事件「バー・メッカ殺人事件」の主犯正田昭を題材に、精神科医であり獄中医でもあった著者が書き上げた長編。
東京拘置所(当時は小菅拘置所)で実際に正田に接触していた著者ならではのリアリティさは息を飲むほど。
また、同じ拘置所に拘置されている有名な戦後の殺人者が多く登場する。
そのどれもが人間臭く、事件を報じた新聞記事から憶測される人間性とは乖離していて、非常に興味深い。

著者の加賀乙彦氏は熱心な死刑廃止論者であるが、この著書においてはさほどその姿勢を全面に出していない。
あくまで「死」と「人間」の関係を描いているが、それでも「国家による死の不条理さ」に対する疑問と問いかけはその端々に見て取れる。

物語の後半、明朝の死刑執行を宣告されてからの展開は、思わず読む者の姿勢を正してしまう程だ。
母との別れ、最後の晩餐、16年間過ごしてきた独房と遺品の整理、お別れの手紙を認めまんじりともぜず夜を過ごすのだが、明け方ふと眠ってしまう。その時に見た夢は・・・・・


今まで数多くの文学作品を読んできたが、その中でも文句なくフェイバリットな作品。
また1980年に発刊された同じ著者の「死刑囚の記録」も興味深い一冊だ。



2017/02/18

Tom & Jelly

子供の頃から見ていた。
Wikiで見ると、日本での最初の放映は1964年。
そこから繰り返し再放送されていたので、大人になるまで毎日といっていいほど見ていたような気がする。

























この作品、1940年に制作を始めた。
当時のアメリカのカトゥーンでは、ウォルト・ディズニーが圧倒的な支持を受けていたが、MGMがそこに果敢な戦いを挑んでいったのだ。
当初は芳しくなかった評価も、徐々に人気を帯びていき、その後はアカデミー賞を何度か受賞している。
そしてアニメーターとしてのハンナ=バーベラの2人の名が全米に轟くこととなった。
現在でも、この二人手がけた初期の作品が最も好評価なのだ。

僕の記憶する限り、この作品に台詞は殆ど登場しない。殆どが音楽で進行を表現している。
時に黒人のお手伝いさんが「トム~!このバカ猫!」と怒鳴るが、それはごく例外的だ。
また、レギュラーではなく、映画版の長編モノも何話かあるのだが、その場合も台詞を多用する場合もあったようだ。

さて、この「トムとジェリー」
しょっちゅう2匹が喧嘩をするのだが、実は大の仲良しでもある。
それを感じさせるエピソードは多々あるのだが、それが何とも心温まるのだ。
ただのドタバタ喜劇だけであれば、やはりこれほど高い評価を受け、そしてこれほど長く愛されていないのだろうと思う。

そう、この作品のテーマはきっと「愛」なのだ。

Do it!

さあ。

動き出そう。

それは素敵な時間の始まり。