2017/02/24

Everyday and Festivals

民俗学では、日常の事を「ケ」と呼ぶ。
仕事や家事を毎日こなして行くこと。
対して日常ではない、例えば祭りや季節の行事、そのような日の事を「ハレ」と呼ぶ。
今でも良く使う言葉に「ハレの日」と言うのがあるが、それはここから来ている言葉だ。

地方の農村部などでは、この「ハレ」と「ケ」がきちんと区別されている。
毎日、日の出と共に起床し、日中は畑仕事に汗を流す。日が暮れればそれは一日の終わりに他ならない。
そして「ハレの日」
この日は仕事はもちろん家事さえも放棄し、一日中飲んで歌い騒ぐ。
それは、毎日の過酷な労働からの開放の日でもあった訳だ。

他方、街ではその「ハレ」と「ケ」の区別が曖昧だ。
仕事中にパチンコをしたり酒を飲んだりする人も多いだろう。
デートしてる不届き者も多いかも知れない。
だから、街の中はいつも混沌としている。
一律の時間の流れの中で同じように暮らして行く農村部の人たちと違い、街の住民の生活観は様々だ。

例えば朝早くコンビニ行くと、ビールや日本酒を買っている人に出会うことがある。
あれは恐らく夜勤明けの人たちなのだ。
僕らが仕事場に向かうその空気の中で、彼らは明らかに休息に向かう顔つきをしている。
そのように街はありとあらゆる生活観を内包しているのだ。

さて、その街でも農村部でも「ハレ」にも「ケ」にも属さない層がいる。
それは「ケガレ」と言う異端者。
日常にも非日常にも属さない人たちだ。

誤解されないように言えば、昨今の近代史的な差別問題で引き合いに出される「ケガレ」とは意味合いが違う。
民俗学で言う「ケガレ」は「穢れ」=「畏れ」でもあるのだ。
それは霊能者であったり、祭事を司る人たちであったり、あるいは芸能者であったりする。

そう、彼らは「ハレ」と「ケ」をきちんと使い分けている人たちにとって純然たる影響力を持つ人達なのだ。
そしてそれが「畏れ」に繋がっていったと考えられている。

さて。
ステージに立つ僕は「ハレ」なのか「ケ」なのか、はたまた「ケガレ」だったのか。

正直僕にも良く分かっていいない。
日常の様でもあるし、非日常の様な気もする。いや、そのどちらにも属さない様な気がしないでもない。

いずれにしても、ステージの上と言うのは特殊な世界だ。
そこにしか存在し得ない何かがある。
やはり、それは僕が「ケガレ」になる一瞬の場なのかも知れない。

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